●佐野 勇太(Yuta Sano)さん
山梨県出身。工学院大学工学部(現:建築学部)を卒業後、メルボルン大学大学院(以下:メルボルン大学院)に留学し建築デザインを学ぶ。在学中は数々のコンペで賞を受賞し、修士制作においてはメルボルン大学歴代最高得点を記録。卒業後、建築家として株式会社三菱地所設計に勤務。
クライアントの今を、形にできる建築家でありたい
―現在のお仕事について教えてください
クライアントからのご依頼に応じて建築を手掛ける、意匠設計に携わっています。
これまでの4年半で特に印象に残っている仕事は、サッカー日本代表のトレーニング拠点「JFA夢フィールド」の建築です。コンペの段階から関わり、約4年をかけて2020年に竣工しました。
動画:株式会社三菱地所設計公式YOUTUBEチャンネルより
―大きなプロジェクトですね!建築のポイントを教えてください
日本サッカーのトップ選手が集う場所でもあるので、選手自身が日本代表であることに誇りを持つことができ、士気を高められる場所になることを目指し、設計しています。
クラブハウスの象徴的な大庇(おおびさし)のデザインは、SAMURAI BLUEやなでしこジャパンの戦いを連想させる、刀や薙刀をイメージしています。
大庇の反り形状は円弧になっています。円は日の丸を意識していて「日本代表として日の丸を背負う」というメッセージも込めました。
さらに、クラブハウスに正対するメインピッチのセンターラインの地理上の延長線にあるのは富士山。
世界にも発信され得る日本サッカーを代表するトレーニング拠点のため、刀・薙刀・日の丸・富士山という日本の象徴が同時に一軸で重なるようにしました。
クライアントのみならず、地域の方々にとっても、様々なシーンが生まれる場所になることを心から祈っています。
―細部まで色々なメッセージが込められているのですね!
はい。ただ、そういった建築的なメッセージは、感じることができる人にしか感じられないものでもあります。
また、その形は私たちが生み出したというよりも、クライアントのこれまでの歴史、想い、夢、つまりクライアントがこれまで携えてきた「記憶」によって自然に形づくられたもの、そして、これからも様々な人の記憶と共に形づくられていくものだと考えています。
私の思考のベースにあるのは、メルボルン大学院留学時に修士制作で確立した「Memory as Matter -Hybrid Mutation Design Methodology-(形而下的記憶 -混成変容設計手法論 -)」。記憶という目に見えないものを、物質として捉え形にするデザイン手法です。
動画:Yuta Sano YOUTUBEチャンネルより
―留学中に得た学びが、今のデザインに繋がっていますね。佐野さんのように相手に寄り添う姿勢は、正直意外でした。何となくですが、建築家=自分の世界観を追求するようなイメージを持っていたので…
建築家によって考え方は様々ですが、私自身は、自分の仕事は「クライアントがこれまで携えてきている、目に見えない記憶を形にし、今を未来に繋ぐこと」だと思っています。
私たち建築家に求められていることは、クライアントの記憶を呼び起こし、そこに建築的可能性を見出し、その目に見えない記憶そのものを翻訳し、形にしていくための一翼を担うということなのだと思います。
そうして生まれる建築を通して、クライアントの今が顕在化し、その場所その場所の今や、その人その人の今が多元的に形づくられていくのだと思います。
「自分が良いと思った進路を選ぶ」出願したのはメルボルン大学院だけ
―建築家を目指すようになったきっかけを教えてください
家族が建築の仕事をしているので、幼い頃から興味がありました。そして、村上龍氏著の「13歳のハローワーク」を読んだ時、適職に建築家と書かれていて。その頃からずっと建築家を目指していました。
―学部で建築デザインを学んだ後、大学院留学を決めたきっかけは?
メルボルン出身の学部時代の英語の先生の姪が、世界的に有名な建築設計事務所で働くメルボルン大学院の卒業生で、メールやSkypeで話を聞くうちにメルボルン大学院の建築デザイン専攻(特にアルゴリズミックデザイン:条件などを元にアルゴリズムを組み、コンピューター解析によって設計するデザイン手法)に興味を持つようになりました。
―他の国への留学や、別の大学院は検討しましたか?
いいえ、出願したのはメルボルン大学院だけです。それまでの進路(高校・学部)も、知り合いが通っていたりして、実際の学生生活や教授陣・授業の内容・キャンパスの雰囲気などに関する生の声を聞き、興味を持ち、決断しました。
学部の時も、周りの影響を受けながら、自分が良いと思った学校を目指し、大学院も同じような流れで自然と選択しました。
―メルボルン大学院で建築を学ぶ上で、日本との違いは感じましたか?
日本の建築デザイン教育とは大きく違うと感じます。まず、メルボルン大学院は学べる建築のジャンルが幅広いと感じました。
日本では「建築」を提案する時のデザインアウトカムとして「建物」や「街」を提案するという大学(建築学生)が多い気がします。例えばあるエリアや敷地の課題を設定し、そこに相応しい「建物」を提案して、問題を解決しようとする流れが一般的です。
一方、私がメルボルン大学院に行って学んだことの1つは、その提案が必ずしも「建物」や「街」のデザインではなくても良いということでした。
そういった背景があり、メルボルン大学院では建築の設計を中心に行う人もいれば、私のようにデザイン手法を研究する人もいたり、ディズニーのピクサーに憧れてイマジナリーな世界を追求したりする人もいました。
メルボルン大学院の建築教育は授業内容が多様で、濃密で、世界中から集まってくる優秀な学生や教授陣の「建築」に対する考え方が様々であるため、「建築とは何か」を皆で考え、追求し、それぞれの学生が自らの答えを見つけ出す場所であったと思います。
また、メルボルン大学院の教授陣の中には、オリンピック施設など、世界的なプロジェクトに関わる建築設計事務所での経験を持つ人も数多くいます。国際的に活躍する人から学べる環境は、日本では少ないので、その点でも違いがあります。他にも違いを挙げるとキリがないですが、別世界でした。
留学中の挫折が大きな飛躍のきっかけに。仲間にも恵まれ、首席で卒業!
―留学生活について教えてください
人生で一番辛く、充実した2年間でした。
学部の卒業制作にて最優秀賞を受賞し卒業したので「メルボルンでも大丈夫だろう」という自信がありましたが、最初の学期の設計スタジオ(必修科目)のファイナルプレゼンテーションで受けたのは「君はこのクラスで求められているレベルの半分にも満たない」という厳しい批評。
これをきっかけに、建築に対する自分の姿勢を見直しました。具体的には、誰よりも早く図書室やコンピューター室に行き、周りの誰よりも建築と向き合うことを習慣にしました。
まずは、自分が行ったその時のプレゼンテーションとクラスの評価基準を照らし合わせて、何が欠けていたのかを振り返りました。
他にも、クラスで一番良い点を取った学生やクラスメイトと意見交換をし、お互いの作品を講評し合う中で、プレゼン資料の作り方や発表の仕方を改善しました。
それから、日常英語や建築用語などの語学を勉強したり、課題の調べものなどに時間をかけて専門分野の勉強をしたり、建築デザインに必要な各種ソフトウェアの習得を目指しトレーニングしたり。
その後は学期を追うごとに成績が上がり、最終成績(修士制作)は100点中97点の首席で卒業することができました。
最初に厳しい批評を受けたからこそ、自分が変わらなければいけないことに気付くことができました。あの時の挫折がなければ、今はなかったです。
―私も留学中の思い出は勉強が中心ですが、そんなことを言うのがおこがましくなるほどの努力と成果です…!ちなみに勉強以外の思い出はありますか?
休暇中もコンペの準備などをしていたので、観光や旅行にはほぼ行っていません(笑)
ただ図書室やコンピューター室に篭るようになると、いつも顔を合わせるメンバーと友達になったり、1日に何度も行くコーヒーショップの店員さんや、見回りの警備員さんと仲良くなったりしました。
ある警備員さんは「もう一周してくるから、戻ってくるまでに帰りなさい」と言ったまま戻らず、私たちを朝までいさせてくれたことも。
―1人で戦っていたのではなく、たくさんの仲間に囲まれていたのですね!
はい。留学中に切磋琢磨した友人は、今でも親友です。同じ専門の仲間が世界中にいるので、卒業した今でも、意見交換をするなど刺激を受けています。
実力が重視される分、スムーズだった日本での就職活動
―就職活動について教えてください。オーストラリアにいることで、日本での就職活動にやりづらさは感じましたか?
当時は大学院の休暇(オーストラリアの夏休み)と日本の就職活動の時期(日本の冬)が重なっていたので、日本の学生と同じように建築設計事務所の採用試験を受けることができ、やりづらさは全く感じませんでした。
学期中に書類とポートフォリオを提出し、大学院1年目が終わった長期休暇のタイミングで帰国して、即日設計(提示される設計テーマに基づいて、図面一式を作成する実技試験)や面接を受けました。その時に内定をいただいた企業で、今も働いています。
学生時代には国内外多くのコンペで賞を受賞していたので、そういった結果も就職活動の際に評価されるポイントかなと個人的には思います。
国際コンペ最優秀賞の快挙を達成も「自分1人の成果ではない」
―就職活動後も、メルボルン大学院卒業までに多くのコンペで受賞されています。印象に残っているコンペについて教えてください
最優秀賞を受賞した国際コンペ(UIA-HYP Cup 2015 International Student Competition in Architectural Design)でしょうか。これをきっかけにメルボルン大学院を志願する留学生も増えたと聞きますし、自分にとっても、大学院にとっても良いことでした。
ただこの受賞作品は、大学院の設計スタジオ課題をブラッシュアップし、みんなで議論を重ねる中で、多くの意見をもらって形にしたものなので、自分1人の成果では決してありません。
今の仕事の中でも、建築が形になるまでには本当に多くの人が関わっていると感じますし、1人でやるよりも、チームで創る方が遥かに良いものができると思っています。
建築とは、社会を前進させるプロセス。多領域のコラボレーションで可能性を広げたい
―これからやりたいことは?
色々な領域の方とコラボレーションしていきたいです。
メルボルン大学のある先生が言っていたのは「建築とは、社会を前進させるプロセスである」ということ。
社会を先の未来へ導くもの、社会そのものをより良くするメッセージ性のあるものであれば、アウトプットは必ずしも建物である必要はなく、例えばこういう(目の前にあるコップを指しながら)小さなプロダクトや社会を動かすシステムなど、どんな形の提案でも良いと思います。
建築家は「建物を建てるために仕事をする人」に留まらず、都度「目に見えない潜在的な要素を柔軟に捉え形にし、社会を前進させるためのプロセスそのものを生み出す人」であるべきと考えています。
私にとって、プロセスは「記憶」そのものであり、記憶を目に見える物質的なものとしてこの世に召喚することにより、「現在(いま)」が顕在化し、新たな未来(過去)が創造され得ると思います。
さらに、曖昧な記憶を可能な限り曖昧な状態のまま形にすることで、様々な人の記憶に語りかける形、様々な人が各々の記憶を基に形づくることを可能にする形の創出が現実になると考えています。
それはつまり、この地球上の様々な「現在(いま)」を翻訳し、形にすることだと考えています。そうすることで、建築家の領域も広がると思いますし、そんな建築家であり続けたいです。
建築だけではなく、社会においても1人ですることには限界があると思います。だからこそ「競争」ではなく「共創」という考え方を大切にしています。様々な方と一緒に、まだ見ぬ世界に向けて色々な形を作っていきたいです。
留学は魔法のようなもの。持続するかどうかは、留学中やその後の努力次第
―佐野さんにとって、留学とは?
私にとって留学のない人生は、カンガルーのいないオーストラリアのようなものだと思います。つまり、私の中の留学という経験は、そのくらい重要で必要不可欠なもので、その機会を与えてくれたメルボルン大学そして両親や祖父母に心から感謝しています。
ただ一方で、留学は魔法のようなものだとも感じていて。留学で学んだ呪文を忘れてしまうと、留学で経験した特別な何かは、瞬く間に消えて無くなってしまう気がします。
魔法が解けないようにするためには、留学中やその後の努力が大切。
例えば語学力も、海外で生活すれば自然と英語に触れる機会は増えるかもしれませんが、意識して継続しなければ、身に付くというレベルまでには到達しないと思います。
私の場合は、ネイティブにプレゼンテーションを聞いてもらいアドバイスを受けて、より良い表現を学んだりしていました。
留学は、自分次第で1にも10にも100にもなると思います。
取材後記
自分や会社を超えて、建築業界全体を長期的な目線で捉える佐野さんの視座の高さに、同世代の社会人として次元の違いを感じました。
一方でインタビュー中「自分1人の力ではない」と何度も繰り返していた佐野さん。「人々の記憶を起点に、皆で形を作る」という佐野さんの建築の軸は、心から人を大切にするその人柄に通じるように思いました。
これから佐野さんがどんな形を生むのかと思うと、わくわくします!
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